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神奈川工科大学歴史・沿革
本学創立者中部謙吉の父・中部幾次郎。学生広報チーム編集者が明石の街を歩く。

本学創立者・中部謙吉の父、幾次郎(1866〜1946)。幾次郎は大洋漁業(株)(現・(株)マルハニチロホールディングス)の創業者で、日本の水産業界の発展に寄与。幾次郎が没した後、遺志を受け継いだ息子たちにより、野球チームを結成。そのチームは、「まるは球団」と称した。現在の「横浜ベイスターズ」の前身である。そんな興味深い幾次郎の生家、兵庫県明石市の街を歩いてきた。

(text_YUTA SUEYOSHI, TOMOKAZU MURAKAMI)

瀬戸内海に面した東西に細長いまち、明石。東経135度の子午線が通る明石は、日本標準時を刻む「時のまち」。言わずと知れた明石名物「明石焼き」は、玉子焼きとも呼ばれ、多くの人に親しまれている。

この街で名を残しているのは、本学創立者の父・中部幾次郎(なかべ いくじろう)。幾次郎は幼い頃、家業の手伝いをする平凡な少年だった。しかし、家業の林兼(はやしかね)商店を継いでからは優れた商才を発揮。林兼商店は鮮魚仲買運搬業を行っていた。仕事のこととなると頑固な性格で、一度決めたことは最後までやり通した。また、細かいことまで調べあげるという研究熱心だったため、数々のことを考案した。例えば1890年代頃、明石の沖合いから大阪へ魚を運ぶ には人力で15時間かかっていた。しかし、幾次郎は蒸気船で船を引っ張る曳船の方法を考案した。

さらに、人の才能を見る目もあれば、人を育てることも上手かった。従業員に対しても、漁のいろはからも指導した。幾次郎は漁業で有名とされるが、漁業に限らず漁船の建造のための中部鉄工場や、漁夫への米を調達するための農場を経営し、中部農事株式会社の設立等、幅広い事業を展開。その一方、小学校の校舎を新設する際には、土地や資金を提供するなど公営事業にも貢献。明石に多くの寄与をした。このような功績から、明石には銅像があるのである。

明石
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中部謙吉像

神奈川工科大学のスタート(大学公式サイトより)

「神奈川県の厚木に大洋漁業の所有地が7万坪ばかりある。その半分の3万5千坪をあてて、ここに5年制の工業高等専門学校を建てることにした。学科目は電気、機械、工業化学の3科目、1学級45人という小規模なものだが、半数を収容できるコンクリートの寄宿舎も作る計画で、来年の4月から開校する予定である。

総工費は10億円、大洋が6割、傍系各社が2割、残り2割を中部家が負担する。授業料も官学よりも少し高いくらいのものにする。そして寄付などはとらない。1年間の維持費は初年度が3,000万円くらい、5年間で満員になったときには7,000万円くらいの赤字になる。これは大洋と傍系会社で負担していく。

中部家で10年ほど前から「幾徳会」と称して育英資金を貸与している。延べ人員は4,000人をこえるだろう。この育英会の維持費は大洋と傍系会社が毎年なにがしか寄付してきたのだが、貸付金が返ってくるので寄付金がいらなくなってきた。むしろ中部家が最初に寄付した基本金がふえて、現在は1億数千万円になった。この際、傍系会社の寄付金にいくらかプラスすれば、学校の維持費としてはじゅうぶんだという目算がついた。大洋としてはこれまで各学校に講堂を寄付することにしてきた。明石の県立高校、山口大学、東京水産大学、北海道大学水産学部、長崎大学など5校におよび、あと5校ほどを予定していた。しかし、最近は各学校の講堂も整いその必要性も薄らいできたので、学校建設に乗り換えたわけである。

現在日本では理科系統の学校が少なくて困っている。国でも予算の関係でなかなか思うようにできない。それで小さな規模であるが、費用もかからず、空気のよい所で心おきなく勉強できるような学校を作り、社会の恩に報いたいというのも一つの動機である。 ~略~」初代理事長中部謙吉氏執筆の日本経済新聞社「私の履歴書」(昭和の経営者群像第7巻)より抜粋

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