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神奈川工科大学KAITスタジアム

中部 幾次郎
1866年(慶応2年)出生
1947年(昭和21年)没
六人兄弟の次男。林兼商店(後のマルハ株式会社)創業者である。

幼い頃は家業の手伝いをするくらいの平凡な少年だった。家業の林兼(はやがね)商店を継いでから優れた商才を発揮。普段は温厚ながらも、仕事のこととなると頑固な性格で、一度決めたことは最後までやり通した。

また、細かいことまで調べあげるという研究熱心だったため数々の発明を考案した。いずれも特許を取得するのに十分なものであったが、幾次郎は、代々魚屋であること、世間のためになるなら結構だとして特許を自ら取ろうとは思わなかった。

さらに、人の才能を見る目もあれば、人を育てることも上手かった。漁のやり方から従業員への細かい指導を施していた。幾次郎は漁業で有名とされるが、漁業に限らず漁船の建造のため中部鉄工場や、漁夫への米を調達するため農場を経営し、中部農事株式会社を設立等、幅広い事業を展開した。その一方で、小学校の校舎を新設する際に土地や資金を提供するなど公営事業にも貢献。

これらのことから、中部幾次郎は地域社会や水産業界に多大な貢献をした人物であり、多くの人に慕われた信念の人だったと言える。

参考文献:「中部幾次郎」
編者/大佛 次郎 発行所/中部幾次郎翁伝記編集刊行会

C6号館横石碑について

日本水産界の先達である中部幾次郎翁は、中部奨学会を設立して子弟の教育を扶け、又多くの学園に教育施設を寄贈する等教育について非常に熱心であった。その意思を継いだ幾徳学園初代理事長中部謙吉氏はこの地に昭和38年4月幾徳工業高等専門学校を設立し、鈴木茂哉校長の教育の下に一千余名の有為の若人を社会に送り出してきた。

更に大きな発展を期して幾徳工業大学に移行したため、昭和53年3月第11期生の卒業とともに工業高等専門学校はその教育活動を終了することとなった。ここに我々第11学期学友会、同窓会、後援会一同は中部幾次郎、中部謙吉両氏の功を讃え永遠に幾徳工業高等専門学校を記念するためこの碑を建立するものである。

* C6号館から中央公園に移動を行いました。

私立高専設立のさきがけ


父・幾次郎の教育への熱い思いを継いだ中部謙吉(なかべ けんきち)は、1949(昭和29)年に自分が保有していた現在のマルハ(株)である大洋漁業(株)の株式を基礎に、財団法人「中部奨学会」を設立し、これが大学設置への構想実現の一歩となった。

1961(昭和36)年に工業高等専門学校を設置する法律が制定されると学校設立に向けて準備を始め、1963(昭和38)年4月、ついに「学校法人幾徳学園幾徳工業高等専門学校」を開校しました。開校当時は“機械工学科”、“電気工学科”、“工業化学科”の3学科で計135名からのスタートで専門学校でありながら、授業料は国公立並で一流の講師陣がそろっているという高等工業専門学校と当時は評判の学校だったようだ。

写真解説

校旗引渡式に臨む池田勇人首相と鈴木茂哉校長。学校づくりを通じ、人づくりをすることで社会の恩に報いたいという建学の動機に共感した池田勇人首相(当時)から校旗を贈呈された。

池田勇人首相とは・・?
日本の政治家で、第58代から第60代までの内閣総理大臣を勤めた。政策においては、戦後日本経済の再編成においても指導的な役割を担い、首相就任後は所得倍増計画を打ち出し、日本の高度経済成長の進展にもっとも大きな役割を果たした政治家の一人。

開校時のキャンパスの様子

開校当時の幾徳高専は田畑に囲まれた、とてものどかな場所。校舎は1期から5期にわたって建設され、校舎以外にも体育館やグランドホール、生徒の宿舎などの設備が整えられた。

校舎として使用されてきた建物は、現在の教務課や非常勤講師質がある管理棟・B1号館から講義室のほかに、健康管理室やAPECK記者ルームのある第一講義棟・B4号館まで。そして、ついに解体作業が始まったB6号館。B6号館には当時の名残を思わせる木の黒板や渡り廊下も・・・。詳しくは特集企画 『さよならB6号館』(近日アップ予定)にて。

『校舎は鉄筋三階建ての近代的な建物で体育館とグランドホールを併設している。・・・総工費は十億円』と新聞でも報じられた。

 

第1体育館も45年前の開校当時からある建物の一つ。現在のE1・E2号館のある場所には生徒の約半数が収容できる寄宿舎が建てられていたようです。

注:建物の名称は現在のものであり、改称されている可能性があります。

時代背景

開設する1962年から1963年はどんな社会だったかご存知でしょうか。このような時代のなか、高専は生まれました。

■「鉄腕アトム」放映開始(フジテレビ)

鉄腕アトムは、手塚治虫が書いたSF漫画で、日本のアニメのルーツになった作品である。テレビアニメの第1作は平均視聴率30%、最高視聴率は40.3と人気を博した。後年『アストロ・ボーイ』の題名でアメリカでも放映され、その後も世界各地でも放映された。

■キューバ危機

キューバにおいてアメリカ偵察機がソ連製弾道ミサイルの存在が発見から始まり、1962年10月15日から13日間、アメリカとソ連の両者の緊迫情況が続き、冷戦が頂点に達して核戦争や第3次世界大戦の危機に突入する恐れが高まった国際緊張のこと。

■ケネディ米大統領暗殺

第35代目アメリカ大統領「ジョン・F・ケネディ」。最年少で、初のカトリック教として大統領に就いた。冷戦時代の真っ只中、パレード中に狙撃されるという大事件が起き世界中に衝撃を与えた。未だ解明されていない謎が多くある事でも有名だ。44年経った今でも実は終幕せず、2039年に最終報告書が提出される。果たして真相は…?

■小田急、新型ロマンスカー導入

3100形電車は、小田急電鉄に在籍していた特急形車両(ロマンスカー)で愛称「NSE」。展望席を初めて設けた車両であり、1963年から1967年にかけて7編成77両が新製され、2000年まで在籍した。1964年度鉄道友の会第7回ブルーリボン賞受賞。

■「ひみつのアッコちゃん」連載開始

『ひみつのアッコちゃん』は、赤塚不二夫の少女漫画、およびそれをを原作としたテレビアニメである。1962年より集英社の少女漫画誌「りぼん」に連載された。テレビアニメの第1作は平均視聴率が19.8%、最高視聴率は27.8%を記録した。変身願望を満たす要素は後の魔法少女もののスタンダードになる。

■梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」発売

『夢であいましょう』という番組内の今月の歌のコーナーにて譜面を募集してできた歌。譜面の応募総数は1万通を超え、同年11月に発売のレコードは100万枚を超える大ヒット。さらに同年の日本レコード大賞受賞曲。歌手は梓みちよである。

■偽造対策で新千円札発行(聖徳太子から伊藤博文へ)

偽札防止のため、聖徳太子に変わって伊藤博文が3代目の千円札の肖像として採用、1963年11月1日から発行されて、1984年11月1日に夏目漱石の新札に変わるまで広く流通した。

関口幸三さんに聞きました

改称される以前の幾徳工業大学卒業生であり、現在、野球部の監督も務めている学生課スタッフの関口幸三(せきぐち こうぞう)さんに当時の大学について話を伺った。

Q:まず創立45周年を迎えた今の気持ちを教えてください。

「ちょうど、この大学と僕が同い年なんです。だから自分の中で親近感を持っているというか、とても身近に感じますね」

Q:関口さんはどんな学生生活を送られたんですか?

「僕は工業化学工学科(現:応用化学工業科)に在籍していて、大学5年間…1年留年したんだけどね(苦笑)…ずっと野球に打ち込んでいたので5年目はかなり充実した貴重な1年間を過ごしました。研究室に配属されてからは朝、研究室に行ってお茶を飲んでゲームをして、昼からちょっとだけ研究をして~という感じで一日を過ごしてました」

Q:当時の思い出で一番印象に残っている場所はどこですか?

「うーん、やっぱり研究室と野球場です。研究室はC3号館(化学工学実験棟)にあったから今でもその前を通ると学生だった頃のことを思い出します。特にC3号館の前にある桜の木は『大きくなったなぁ』と時代を感じますね。野球場は“野球場”といってもただの原っぱに近かったから照明灯がなくて夜はできなかったので講義が終わったらすぐに練習してました」

Q:当時の大学周辺は今と比べてどうでしたか?

「大学前のスリーエフは酒屋さんだったんです。だからよく、そこでお酒を買って、研究室で飲んだりしてました。僕が卒業したと同時に幾徳会館が出来たから、学内で学生がくつろげるスペースがなくて、正門前にあった『コアラ』(現 フィリピン・パブ「ミスキタ」)っていう喫茶店へよく行ってましたよ」

Q:ちなみに学食は第1食堂しかなかったんですか?

「そうです。学食というと1食しかなかったんです。そういえば、あの頃は『幾徳そば』っていう山菜が山盛りになったそばがありました。250円くらいだったかな?ちなみのちなみに、この山菜そばを作っていた人は今も2食で現役です!(小池さん)」

Q:最後に創立50周年にむけて一言お願いします

「5年後の創立50年はこの大学にとって大きな節目になると思います。これは人間で例えれば『二十歳を越えたか』というところで、これから『伝統』というものが築き上げられていくんだな~、と感じるますね」

今まで刻まれてきた45年という歴史一つ一つから築かれていく『KAITの伝統』―――次回Vol.2では『幾徳高専時代の様子』を取り上げます。お楽しみに。(その後、新聞で取り上げられることとなり、当WEB企画は中止となりました。ご了承ください。)

*注 1962年の設置許可が降りてから、45年目に当たる年です。